OB寄稿 宮原英臣

2012/04/17

京都大学ラグビー部卒業生として

宮原英臣(S52卒 主務 経 HB 小倉)

 昭和48(1973)年に京都大学経済学部に入り、ラグビー部に飛び込んだ。当時のキャプテン、清(旧姓吉川)さんがSOで動かす巧緻なBKラインとバイスキャプテンのエグマ(本名松井)さんがまとめる強力FW陣のバランス良いチームで、福岡(県立小倉高校出身)から出てきた田舎ラガーマンにとっては、スマートで眩いラグビーに思えた。1回生時(キャプテン清さん)、2回生時(キャプテン水田さん)と2年連続してチームは大学選手権に出場、同期の丸橋・水田・小野田・吉岡らが2回生でも先発出場するのをベンチから応援。SOからSHに転向して3回生からレギュラーになるがチームは関西Aリーグの下位に低迷、ということで現役時代については、特筆すべきこともない。しかし、京都大学ラグビー部の卒業生であることが、その後の自分の社会生活に大きく影響することになった。数多くの先輩の方々、また他大学のラグビー仲間達とのご縁が様々な場面で導いてくれた。京大ラガーとしての4年間が、卒業から30余年を経た今も自分にとっての礎になっている。

 卒後後、S52(1977)年4月に三菱商事に入社した。当時でも就職先人気の上位に位置した同社に入社できたのも、実は京大ラグビーのお蔭だった。3回生の菅平夏合宿に、前年に三菱商事に入社していた越智さん(S50卒)が来られて「来年4回生で文系の奴はいるか?」と尋ねられた。同期で文系は自分だけだったのでおずおずと手を挙げたところ、「何やヒロミ(自分のあだ名はヒロミ、新歓合宿で郷ひろみの物真似したことから命名された)一人か、じゃあお前、ウチに来るか?」、「はい!」と、最近の厳しい就職事情からは想像もつかないかもしれないが、これで就職が決まった。

 4回生になってからは、三菱商事関西支店におられた宮原邦壽先輩(S35卒)や前田真孝先輩(S47卒)に初めて北新地に連れて行かれて入社前の心得を教わり、秋の役員最終面接には、前日の対天理大戦で眉間を蹴られて7針を縫う怪我で途中退場したために、顔面中心部が腫れ上がり、絆創膏で人相不明の状態で出席した。しかし、怪我の功名で話題はラグビーに終始して役員面接も無事にパス、晴れて正式内定となった。三菱商事でもラグビー同好会に入り、カナダ遠征やオーストラリア遠征などに参加するが、同時に学士ラガー倶楽部でも海外遠征に参加した。これらを通じて京大ラグビーの定期戦相手である東大や慶応大、あるいは一橋大や成蹊大のOB達との輪が会社の枠を超えて広がって行った。

 転機は入社8年目のS59(1984)年の年末に訪れた。上司から、海外赴任先としてニューヨークとロンドンの二つが候補にあるがどちらがいいか、と打診されたのだ。実は、その時、自分は米国三菱商事(ニューヨーク)に3か月間の長期出張中の身であった。普通ならば、長期出張中でもあるので、引き続きニューヨークを希望します、というところだろうが、何しろラグビーの本場、英国に行けるチャンスなので、迷わずロンドンにお願いします、と答えた。当時のニューヨークの部門長に睨まれたのは当然だろう。

 翌S60(1985)年4月にロンドンに赴任。ヒースロー空港に着陸する飛行機の翼の下に、数多くのラグビー・グランドが見えたのに胸をときめかせた。ロンドンではその後7年間に亘って、在英日本人のクラブであるロンドンジャパニーズでプレーするが、そこでも数多くの出会いとご縁が広がっていった。早大OBの宿沢さんとはちょうど入れ替わりでプレーを共にすることはなかったが、その後、日本代表監督に就任されて対スコットランド戦での歴史的勝利を挙げた際には、事前に英国で放映された5カ国対抗でのスコットランドの全試合のビデオをお送りして情報分析に役立てて貰った。早大OBでは、炎のタックルマン石塚武生さんに続いて、伊藤隆君が英国リコーの歴代駐在員として同じ時期を過ごし、日比野弘先生も同時期にロンドンに滞在され、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いた。


 明治大OBの砂村光信君も英国リコー駐在員として滞英、共にプレーをしただけでなく、今でもNHKラグビー中継での主音声と副音声での解説者コンビを組んでいる。慶応大OBの倉本博光さん(郵船ロジスティクス社長)とはS61(1986)年度の慶応大学の日本選手権優勝にパブで祝杯を上げた。同志社大学を卒業して2年間の予定で英国留学に来ていた平尾誠二君は、留学を1年で切り上げて帰国し神戸製鋼に入社するが、1シーズンをロンジャパでともにプレーしたことは当時の全メンバーの良き思い出になっている。オックスフォード大学に留学していた同志社大OB林敏之君も試合の度にオックスフォードから駆けつけてくれていた。7年間の滞英中には日本代表をはじめ、全同志社大、全早稲田大、東芝府中などの有力チームがイングランドやウェールズに遠征に来たが、現地でのお手伝いや案内にも携わっていたお蔭で、たくさんのラグビー関係者と交流を持つことができた。


 H3(1991)年のラグビーワールドカップ(RWC)イングランド大会での日本代表の試合を応援観戦した後、H4(1992)年に帰国して三菱商事本社に戻った。帰国して5年後のH8(1996)年にはソニー生命保険に転職したが、偶々、同時期から日本協会のレフリー委員会に参画することになった。日本ラグビー界の国際化・プロ化が急速に進んだ時期で、旧態依然としていたレフリー界もオープン化・国際化することがミッションであった。レフリー委員会の国際担当ということから、H9(1997)年に来日した豪州ACTブランビーズのヘッドコーチに就任したばかりのエディー・ジョーンズ氏(本年4月から日本代表監督)の知己を得て、翌年、市口順亮監督(S39卒主将、H5~H17監督)率いる京大ラグビー部の夏合宿では1日特別コーチとして同氏の指導を受けた。市口監督とエディー・ジョーンズ氏のラグビー論議も楽しく拝聴したが、学生諸兄にも得難い経験であっただろう。サントリーの夏山真也君(S54卒主将)の橋渡しのお蔭もあり、エディー・ジョーンズ氏との交友は今も続いており、昨年夏には“エディ&ジェイクが語るスクラムにおける安全と公平”というスクラムマネジメントの技術指導資料(CD-R版;ラグビー・レフリー・リサーチ・センター;通称3RC、発行)作成にも協力して頂いた。

 一方、H7(1995)年のRWC南ア大会で日本代表がオールブラックスに歴史的大敗を喫したことから、日本代表の体制も刷新され、H8(1996)年から代表監督には平尾誠二君が就任していた。旧知の仲でもあったことから、ルールとレフリングの観点からの側面支援ということで平尾ジャパン代表チームにも関わり始め、さらに、H11(1999)年のRWCウェールズ大会には平尾ジャパンの総務広報マネージャーとして代表チームを支えるスタッフの一員で参加した。これには、三菱商事時代の国際経験に加えて、ソニー生命の勤務形態がフルフレックスだったことで1か月間も日本を離れることが出来たことも、貴重な経験を得る要因であった。

 RWC大会の期間中に、平尾ジャパンの軌跡を長期に亘って追いかけていたNHK取材陣と懇意になったことが、翌年からのNHKラグビー中継における副音声解説(ルールを中心にした分かりやすいラグビー解説、という当時の新企画だった)につながり、今に至っている。また日本協会の関係では、和田会長が日本協会副会長に就任されて以来、公私にわたりご相談に乗って頂くと共に様々なご指導・ご支援を今も頂戴している。

 振り返ると、京大ラグビー部卒業から始まったラグビーの繋がりが、時間と空間を超えて広く深くなっていったように思う。このラグビーを通じての縁の広がりを、京大ラグビー部の後輩諸兄にも繋げていくとこが、京大ラグビーの伝統を、オンザフィールドだけでなく、オフザフィールドでも伝え広げて行くことになるだろう。


宮原 英臣 卒業後の略歴:
     1977年 三菱商事株式会社入社
     1996年 ソニー生命保険株式会社入社
     2000年~NHKラグビー中継での副音声解説