OB寄稿 清 史彦(S49年卒)

2012/04/17

KIU R.F.C.への誘い
 
真宗大谷派瑞興寺住職 清(旧姓 吉川) 史彦(S49卒 主将 法 SO 天王寺)  

 私は1971年大阪府立天王寺高校から京都大学ラグビー部に入りました。当時は、天高も京大もずっと強かったので、今とは比較にはなりませんが、ここでは私の40年前の昔話を聞いていただきたいと思います。

 私は、中学では陸上で、高校でラグビーを始めました。入学前の冬、NZ大学選抜と全日本の試合を花園で観たのが一番の切っ掛けでした。SHの長いスピンパス、FBの長い脚からのロングキック、黒衣の躍動が鮮烈でした。

 天高では練習がしんどかったです。夏など夕食が食べられず、先ず風呂に入り、卵、バナナ、牛乳、氷をミキサーで混ぜたのをガーッと飲んで寝て、夜中に起き出して復習予習をするといった毎日でした。チームは一年の冬、大阪最強だった淀川工に作戦勝ちで競り勝ち、布施工にも勝って18回目の花園に出場しました。私は初戦、初出場の目黒戦にFBで出させてもらいましたが、後半、ロングキックにみな頭を越されて逆転負けを喫しました。3年で主将となりましたが、準決勝で啓光に同点抽選負け、花園への夢は終わりました。

 その後、全大阪に選ばれ、韓国や台湾のチームと試合をして、高校最後の試合は1月14日でした。それから猛受験勉強で京大に滑り込みました。正直言って、京大へはラグビーをしたいために入りました。今と違って、大学Aリーグの試合は新聞に載りましたし、東西学生対抗試合で、京大のSOが頭を振っただけで、対面の早稲田のSOを抜き去るシーンをテレビで観たりして、憧れていたのです。

 京大ラグビー部に入ると、先ず主将から「うちには爺ちゃんという絶対な人がいるから」と聞かされました。何の事かなと思っていると、それは「星名」という大先輩で、S3の全国制覇の時のCTB、極東五輪に陸上で出場、アメリカのテキサス生まれで、あだ名は「テキさん」、京大工学部を出て勤めたのは「満鉄」、戦後帰国して、京大教授、同志社学長を勤め、当時は引退されて「ラグビー全日本」の知恵袋となっておられ、まさに「京都帝国大学」を象徴する爺ちゃんでした。

 京大での練習はエキサイティングでした。だって、京大で試したプレーを次の年ジャパンがするのですから。小さいけれどセットを頑張るFW、毎回違うサインプレーを試み、ラインで抜いていくBK。星名先生のコーチの下、楽しいラグビーができました。幸い1年からSOを任され、2年、4年の時に全国大会に出ました、どちらも初戦で早稲田に敗れましたが、「攻めている時間は同じくらいだった」と観客に言ってもらえました。

 現状とは全く違う昔話です。が、ラグビーを楽しむという基本は変わりません。現役も対国立大学の戦績を見れば、まだまだできると思いますし、近年OBを中心として、いい環境でラグビーを楽しんで強くなってもらいたいと、天然芝のピッチとクラブハウスを整備しました。あなたも是非、伝統のKIU R.F.C でラグビーを楽しんでください。

※『KIU Rugby News Vol.19』より転載。
※清 史彦 京都大学卒業後の略歴:
         1974年 丸紅株式会社入社 東京本社にてセメント輸出を担当。
         1980年 丸紅を退社、1981年 京都大谷専修学院入学。
         1996年~瑞興寺住職。
        *1993年より、「坊主バー」をプロデュース。 http://www.oct.zaq.ne.jp/vows/